【古賀はこがんとこばい】「古賀の民話と伝説の地を訪ねて」(その3)

平成29年11月16日に実施されたコスモス市民講座「古賀の民話と歴史を訪ねて」で訪れた場所などを紹介するシリーズ。

「古賀市案内マップ」

第3回目は、薬王寺と米多比の境にあった峠道付近での話。

座頭こかしの伝説

旧藩時代(江戸時代の頃)からは、正月が近づくと、座頭さんが檀家廻りをする
「荒神祭り」(三宝荒神の略。竈の神様をまつる祭り。屋敷の神様のこともいう。)がありました。

年の瀬も押し詰まったある日、福間町の八並に住んでいる座頭さんが、青柳地方の「荒神祭り」のため檀家廻りに出かけました。

黒の法衣を身にまとい、琵琶と米袋を背に負い、この峠に差しかかります。

目が不自由なうえに狭く急な坂道。杖を頼りに登り詰めたまではよかったのですが、下り坂で方向を間違え、足を滑らせて坂を滑り落ちて行きました。

命より大事な琵琶を背中から取り、これを高く差し上げたまま落ちた先は田んぼの溝。

ところが運悪く、身体と米袋が溝に挟まって起き上がるどころか、身動きもできない始末。

困った座頭さんは、琵琶を一生懸命に弾きたて、救いを求めました。

するとこの峠を通りかかった村人が、琵琶の音色を聞き付けて不思議に思い、そのあたりを探し回り、やっとのことで溝にはまっている座頭さんを助け出しました。

この話はたちまち村人の間に広まって、誰からともなくこの峠を「座頭こかし」と呼ぶようになったということです。

この峠付近の状況については、「郷土古賀の民話」には「薬王寺と米多比を結ぶ県道は,今でこそバスや車が通っていますが、明治23年の工事以前は、曲がりくねった急な坂が続く険しい山道でした。
(略)昭和3年にも山をけずり道幅を拡げまっすぐにする工事が進められ今のような道になりました。この工事はたいへんな難工事で完成まで十年もかかったそうです。
また、昭和57年には側に産業道路ができた今では,この峠の道は埋めたてられ,ほとんど面影はありません。」とあります。


なお、「古賀町誌」にも「薬王寺の米多比の峠の話」として同様の話があり、「薬王寺と米多比を結ぶ県道は、今でこそバスや車が何不自由もなく往来出来るまでに整備されているが,明治の中期頃までは現在の小野小学校の上をやっと堀り切ってつくられた曲がりくねった坂道で、人馬とも坂の登り下りには足下を随分気遣かった険しい山道だった。

明治27年(1894)に村中の義務夫役で掘割工事が進められ,その後何回となく掘り下げられたが,なかなか直線にまでは進まず,岳の麓を迂回する道にするのがやっとだった。

それから昭和3年(1928)になり御大典記念の村是樹立によって,生産経済の動脈である県道・林道の改修・直結計画が十か年に亘って実施され,現在に近い県道が出来上がった。」とあります。

(参考)昭和60年9月1日発行「郷土古賀の民話」(古賀町司書部会)、昭和60年11月1日発行「古賀町誌」(古賀町誌編さん委員会編集)

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【記事を書いた人】
千鳥ヶ池のめだか 街歩きと歴史探訪の記事が得意。古賀の歴史を様々な視点から伝えています。

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