那珂川町の閉町式と那珂川市の開市式。それは1997年の古賀町から古賀市への市制施行以来。なので古賀の閉町式・開市式を。

平成30年9月28日(金)。

この日の福岡県内に関するローカルニュースでは、「那珂川町」がよく取り上げられていました。

平成27年10月1日を基準日として実施された国勢調査により、那珂川町の人口は50,004人という結果がでました。これによって、市制施行要件の1つである『人口5万人以上』を達成し、平成30年10月1日から『那珂川市』になるそうです。

その直前の平日である平成30年9月28日(金)は、町役場として公式に業務をしている最後の日ということで、この日が那珂川町としての閉町式の実施日となり、多くの方が歴史の節目に立ち会っていました。

さて、そんな那珂川町から那珂川市へというニュースのなかには、「1997年に古賀町が古賀市になって以来の市制施行」という言葉が添えられているのが、古賀すたいる的には気になりました。

というわけで、1997年9月30日の古賀町の閉町式と、翌10月1日の古賀市の開市式を振り返ってみたいと思います。

まずは古賀町の閉町式から!

会場は、古賀市役所古賀町役場の第一庁舎前。

残念ながら今は伐採されてしまった蘇鉄?が、まだ伐採される頃の三分の一くらいの背丈しかありません。また、90年代らしく、女性の市役所町役場職員さんの装いが制服だったりします。

厳かな雰囲気のメイン会場は、どーんと「古賀町閉町式」と。

ふとこの部分の屋根を見上げると、そこには「古賀町役場」の文字が。

その文字が高らかに掲げられた屋根部分の下で、閉町式がはじまります。

当時の町長さんは森藤雄さんでした。森町長さんが、式辞や閉町の宣言をしたり…

正面玄関に掲げられていた銘板が、大事に取り外され、そして格納されていったり…。

そんなこんなで、古賀市役所に生まれ変わるために、古賀町役場と別れを告げた式典が終わりました。

さて、翌10月1日からは古賀市役所になるということで、式典が終わったら、いろいろなところの「古賀町役場」の表示が「古賀市役所」へと変わっていきます。式典会場となった正面玄関の屋根部分の文字も入れ替わりの作業が始まります。

文字を取り除き、きれいに整えたうえで、翌日10月1日には「古賀市」としての「開市式」がはじまります。

前日までの古賀町役場感を払拭し、新時代の古賀市役所感がたっぷり!

くす玉の彩りのあと、カバーを取り外すとそこには

今に繋がる「古賀市役所」の文字が!

ほかにも、「古賀市民憲章」の除幕式とか。

知らなかったよという方のために、せっかくなので憲章にかかれていることをご紹介すると…

緑豊かな犬鳴の山なみ、白砂青松の花鶴浜などの自然と、太古からの史跡に恵まれた私たち市民は、互いに英知を傾けて新しい歴史を創造し、名実共に栄誉ある古賀市にすることを誓って、この憲章を定めます。

1 恵まれた自然にこたえ水と緑を愛しはぐくみ快適な住みよいまちにします

1 からだと心を鍛えたくましく生きる力を養い活気あふれるまちにします

1 日々感謝して仕事に励み人のため社会のためにつくし豊かで潤いのあるまちにします

1 先人の遺業に学び知恵と技術を磨き文化のかおり高いまちにします

1 家族仲よく隣人を敬愛し世界の人と友となり明るく平和なまちにします

これは、この記事を書く21年前のこと。平成の時代の話であり、20世紀の話でもあります。もしかしたら今の「古賀すたいる」の読者の人の半分くらいは、この閉町式・開市式のときには、生まれていなかったり、まだ古賀に住んでいたりしていなかったりするのかもしれませんけれども、1997年秋を古賀で過ごした方にとってはとても思い出深い出来事だった…ということは、思いを馳せておきたい気もします。

…って、この記事を書いている私も、古賀を飛び出して関東で過ごし始めた時期なんですが。

この記事を書くために、写真をご提供いただいたり、当時のお話を教えてくださったりしたご関係の皆さんありがとうございました!

【記事を書いた人】
千鳥足 大人の事情で、顔出しNGでしたが、いったん解禁しました。けど気が変わってやっぱり顔出しNGに戻る。 徳島県生まれ・福井県育ち。幼稚園から高校まで古賀にいたあと、茨城とか東京とか長崎とかで過ごしたのちに古賀にUターン。 趣味: 読書。遠藤周作とか吉村昭とか阿川弘之・阿川佐和子とかが好き。 お酒飲むのも大好き。

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