【第3回】【古賀イマゴロ】唐津街道 赤間宿から青柳宿へ 畦町宿

畦町宿(福津市畦町)

「畦町は、昔(藩政時代)筑前黒田藩が指定した27宿駅の一つであった。

慶長5(1600)関ヶ原合戦の後、黒田長政が筑前の国主として入国するころまでは、まだ人家も少なかったが、寛永19(1642)年唐津街道の整備に際し、青柳(古賀市)と赤間(宗像市)との間、約4里(16㎞)が遠すぎるということで、当時の鳥ノ巣村と本木村の一部を街道沿いに集め、宿駅として新たに成立したのが畦町村である。

当時100軒余の戸数があり、480余人が住んでいた。
街道を行き交う人も多く商家が圧倒的に多かった。

南北に通じる町並みの入口の両端には、関所のようにして『構口』があり、御制札所や役人詰所があった。

宿場町として栄えた畦町村も明治年代以降は、宿駅廃止や鉄道、国道の開通など交通路線の変革と共に宿場の機能を失った。
今ではこの宿場通りも古い民家は建て替えられ、昔の家並みは少なくなったが、『杉ぼて』や『卯建』など江戸時代のたたずまいが残っているところもあり、宿場町の名残が感じられる」
(県道503号線・町川原赤間線の「畦町入口」交差点近くにある案内板「文 平成11年度 福間町公民館主催講座 ふるさと再発見教室」より)


畦町宿の手前にある「太閤水」(福津市八並)。天正15年(1587)豊臣秀吉は、島津制圧のため赤間を過ぎ山の口峠(八並)を越えた所で大休止し、この水で喉を潤したといわれる。

 

西郷川に架かる畦町橋。この橋を渡ると畦町宿「東構口」


畦町宿「東構口」付近

天満宮参道からの町並み

「西構口」付近

 

 

 

関連記事

【記事を書いた人】
千鳥ヶ池のめだか 街歩きと歴史探訪の記事が得意。古賀の歴史を様々な視点から伝えています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください